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【歴史を感じる】東海大学エリア公園特集

スポット

こんにちは!
アパマンショップ東海大学前店です!

今回は!

今回は、東海大学前エリアの1つである真田・北金目の公園についてご紹介させて頂きます!!!!!

塚越古墳公園

まず初めにご紹介させて頂くのが小田急小田原線東海大学前駅から徒歩24分の場所にございます。塚越古墳公園になります。

↑の写真の木が生えている所は何だと思いますか!これ、実は古墳のてっぺん部分になります!古墳時代前半に築城されたと考えられています。墳丘が残る前方後方墳は神奈川県内でも僅かで周溝を含めて長さが55mの規模を持ち、旧相模国内でも最大規模の前方後方墳です。古墳時代前期の古墳は生産を基盤とした政治的支配者の出現が考えられますね。

この公園は、3つのスペースに分かれており古墳エリア・遊具エリア・多目的広場エリアとなっています。
遊具エリアは、夕方だったので公園を利用されている方もたくさんいました!

丘の近くから西の方向を眺めると渋沢丘陵が見えていますね。もしかしたら、高麗山公園(湘南平)が見えていますね!
眺めが良いので気分転換にもなりそうですね!

塚越公園
住所:〒259-1207 神奈川県平塚市北金目2丁目15
アクセス:東海大学前駅から徒歩24分
平塚市 塚越公園
URL:http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/koen/page-c_02846.html
(2022年2月時点)

余談ですが

この東海大学前エリアには、北金目古墳・二子塚古墳・南金目大塚古墳など古墳が有るのはどこかロマンを感じますね。

北久保公園

次にご紹介させて頂くのが北久保公園になります!

こちらの公園(緑地)は、平塚市都市計画事業 真田・北金目特定土地区画整理事業によって作られています。

丹沢山系の東縁にある真田・金目地域固有の地形や原風景の面影に巡り合える場所となっています!

公園から平塚の田園風景や市街地を見る事ができますね!
身近に景色を見渡せる公園が有るのは嬉しいですね!目を凝らすと海が見えてきそうな気がします(笑)

この地域には少なくとも古墳時代の4世紀ごろから人々の営みが続いていると考えると武者震いしそうですね。

住所:神奈川県平塚市北金目2-5-7
アクセス:小田急小田原線東海大学前駅 徒歩27分
公園内に手洗い場があります。
(2022年2月時点)

真田与一公園

こちらが真田与一公園です!まるで人の名前みたいですね!
実は、こちらの公園の隣にある天徳寺にこの真田地域を平安時代末期に収めていた佐奈田(真田)与一義忠の居城跡がありそれにあやかりこの名前になったのではと考えています。
この佐奈田与一は2022年に放映されている鎌倉殿の13人で割愛されてしまった石橋山の戦いで活躍していました。

公園は広場に遊具が有るので小さなお子さんでも遊ぶ事が出来そうですね!
また、緑や竹林が身近にあるのが嬉しいですね!

住所 神奈川県平塚市真田1-14-26
アクセス 小田急小田原線東海大学前駅 徒歩18分
公園の設備には水飲み・手洗い場があります。遊び場にはスプリング遊具・スイング遊具,すべり台があります。
(2022年2月時点)

最後に

今回の公園特集はいかがだったでしょうか。古墳時代と平安時代末期の感じられる公園たちがとても良いですね!
また。この地域には紹介させて頂いている4個の公園以外にも4個の公園があるのでとても環境の良い地域ではないでしょうか!そして、この地域には大きい商業施設があるので合わせて環境の地域ではないかと思います。

余談ですが...

真田与一について少しご紹介させて頂きます。

真田城跡地は平安時代末期において相模国三浦半島を本拠とする豪族三浦義継(みうらよしつぐ)の四男が同国西部(現在の小田原市東部付近)豪族の中村宗平(なかむら・そうへい)娘を妻とし、宗平より与えられた岡崎郷を名字とした岡崎四郎義実(おかざきしろうよしざね)の嫡男である眞田與一義忠(さなだよいちよしただ)の居城といわれています。
 治承4年(1180)年8月の石橋山合戦の時のことである。同月23日、石橋山の谷を隔てて平家方と対峙した頼朝は、決戦の時が迫るのを知ると、諸将に向かって、平家方の先陣となって来ると思われる大庭景親(かげちか)、俣野(またの)五郎に誰を立ち向かわせたらよいか、と問うた。すると岡崎義実(よしざね)がすかさず我が子佐奈田与一義忠を推挙した。頼朝は与一に先陣を命じた。命を受けた与一は、郎党文三に後事を託し、出陣しようとしたが、文三は幼いころから苦楽を共にした殿を見捨てることはできない、と言い張った。与一と文三は敵の先陣めがけて突進した。与一の姿を見て平家方の武士は組み討ちしようと我れ先にと進んだが、与一の奮戦になす術を知らなかった。与一の前に平家方の剛者俣野五郎があらわれた。大力の俣野は海の中へ落ちる断崖の上で、与一に組み付き、二人は上になり下になりの格斗を続けた。
 戦いは一瞬与一の有利に働いたが、俣野の加勢にかけつけた長尾新五と弟の新六の手により、遂に与一は二十五歳の若さで討ち死にした。郎党文三も稲毛重成(しげなり)の兵に囲まれ、奮戦の末、主人と死をともにした。
 天徳寺境内には、眞田與一義忠を祀る祠堂の脇にはこのように紹介されています。「眞田城址と天徳寺の由来眞田與一義忠公は三浦義継の四男岡崎城主、岡崎四郎義実の嫡子であり、その居城が眞田城である。治承四年(1180年)八月二十三日夜、源頼朝伊豆挙兵の折石橋山にて俣野五郎の家臣長尾新五・新月のために討ち死に。二十五才であった。一説に義忠公はこの時、痰が喉につまり討たれたことにより、喘息・痰咳の神(眞田明神)として崇められている。その後、天正年間岐阜天徳寺七世義翁盛訓禅師義忠公の菩提を弔うため天徳寺を造立する。」

涙を流した源頼朝。